昭和五十一年一月三日 朝の御理解
御理解 第十四節 神は荒地荒屋敷をお嫌いなさる。
綺麗に耕されて、そして肥料がきいてそこから良いものが育つ生まれると。ですから、その反対の事を考えればなるほど荒れ地荒れ屋敷は神様の住みつきなさるというか。神様が喜んで下さるというか、いう事に相応しくないことなんです。
どうでもそこが生かされてそして耕されたり、それが活用されたり、するところに神様のいわゆるお喜びがある。お嫌いなさるの反対ですから、神様がお好きになる。お喜びになるということになりますよね。
ところがなかなか荒れておりましたり、いわゆる荒れ地荒れ屋敷が多すぎる。これは私は人間の心の上に、ここ頂きましたら神は荒れた心、荒れた家庭をお嫌いなさるという事になるのじゃないでしょうかね。同じです道理は、荒れた心、いわゆる争いの絶えない家庭といった様なことになるでしょうね。
昨日、久留米の井上さんがお届けをしておられました。元旦祭の時の、まあ感動というか感激を御礼申されておりました。お祭がだんだん進んで、先生方の手から手へお供え物がいわゆる運ばれる。神撰物が御神前にお供えされる。今度はお魚が、いつも赤が一番に出ます。赤、青ですね、それに今度はあの大きな鰤が出てまた次に鰤が出ましたよね。まあいうなら、ぶりぶりというところです。それももうとにかく昨日、西岡先生がこげな重かお供えもう初めてでじゃったというぐらいに重かったそうです。
その鰤がね、次々と出る時に、もうどうにもこうにもでけん感動が沸いてきたと言われる。もう、いわゆるお祭中感動のしどうしだったというんです。それもふっと、親先生がいつも御理解の中に言われる、私の修行中の福岡の時分、お月例祭を仕えさせて頂くと、いうてもお供え物を買うもちろんお金もないし、まあお神酒鈴もお神酒が買えませんからお水である。もちろん水玉はもちろん水ですけれども、まあもう食料品店から捨ててあるたくあんの腐った様な、もう白うなっとる真ん中だけ、こう取るとまあ少しは苦いけれどもまあ食べられん事はないといった様なたくあんが切って、よかとこだけ切ってお供えがしてあり、庭に少しばかり作っておった、まあ畳一枚ばっかりぐらい作っておったニラがまあとにかくよく出来ました。そのニラがまあ、お三宝一台。もうこれは乾物のつもりで海茸のね、もう海茸も《カビ》が生えて売れんで、隅の方にこう置いてあったから、それを聞いたら、「そりゃあ売られません。いんなさるなら持って行って下さい」という様なものでしたから、余りカビがいっぱい生えとりますから、綺麗に洗いましてね、そしてそれを干してそれがまあ、乾物のお供えでした。
まあ、私はそれこそ何も食べられん物はないと言うけども、海茸の洗ったとぐらい食べられんものはないですよ。馬糞紙噛むごたった。あの、こうヒビの入ったごとしてこう白こふいとる、あれで味があるのであって、もう洗ったら全然食べられるもんじゃないです。まあ見かけはそれでも海茸のお供えがしてある。まあそんなお供えでした。
それで、まあ家内と二人でお月例祭の、まあおしるしの様なお祭をさして頂くわけですけれども、そん時にあの神様から、[水づくし魚づくしになるまでは離れられぬがわしの心じゃ]という事を頂きました。
[水づくし魚づくしになるまでは離れられぬがわしの心じゃ]と〈仰るのです〉。
その事をふっと思い出された。ね、先生のご修行中の時分には、それこそお月例祭というてもです、それこそ水づくしのお供えの時代があったが、神様が魚づくしにすると仰せられたがもう本当に魚づくしのおかげを受けておる。あの時には出ませんでしたけれども、鰤は五本あったんです。それを出してなかったんです。他のを、大盛なっとんすりゃ、まあだよかっとるばってん、お三宝には二台だけ、あの大きな【 】でしたよね。鯛が大鯛が二枚でした。本当に魚づくしであります。
そういう、いうならば試練の時もういよいよ私どもの心の中には、もうそれこそ水も漏らさん、ありがたさ勿体なさでいっぱいの時でした。私の知った家庭に、とても円満です、普通は。円満ちゅうが、まあその笑いどよめきしよんなさいます。ところが月末頃になってくると、ほりゃもういわゆる親子喧嘩ですね、それがひどいんです。ははあ、もうあそこは給料が切れた頃ばいなと、まあ周囲の者が言うくらいに月末頃くらいになると<わりわりいうごたる>喧嘩が始まるです。本当いうたらそういう試練の時こそいよいよ心を暖かく、もうとにかくね、もう今日は食べ物は何にもない。それでもまあ、今日一日過ぎたから明日は明日というて、御礼の申し上げれる様な心で過ごさせて頂かなければならんのだけれどもお金のある間はニコニコでも、そしてからなかなか贅沢されるです。月末頃になるともう給料が切れますから、まあ隣近所にもそうにゃあ借り散らかしちゃるからそうまあ借りにも行かれん。さあ、お米を借りに歩いたり、塩借りに歩いたりしよんなさいました。金が無くなったら、わりわりするごたる喧嘩が始まる。まあそれはね、お互いのいろいろな不如意なことがあります。これは今が修行の真っ最中かという様な事もあります。けれどもそういう時ほどです、もう神も仏も見放さっしゃったという様な考え方ではなくて、そういう時をこそいよいよ大事にして。それこそ水も漏らさん様な信心がいわば出来やすい時なんです。だからこのところを、おろそかにしてです。さあだんだんおかげ頂いてきたから、よか信心ができるという事は決してない。そこがでける人じゃなからなきゃおかげにゃならん。
昨日も北野の秋山さんが参って見えて、ちょうど前の日に来とった、年賀状をここで読ませて頂きよるとこでしたから、それ読み終わったところへ、宮崎に行っております長男の光幸さんから年賀状が来てるんです。まあほんのごてまあだ十代で、結婚してからもうそれこそいくら親の反対でも押し切って、どうなるじゃろうかとこう思うた。そしてしばらくしてから子供が出来けたら今度は嫁ごば追い出すとか、追い出さんとかちゅうなら。それこそもうほんに、ちゅうごたる状態が続きましたけれども、もうそれこそ親の信心が狂わなかった。もうそりゃあ、もう本当にあのあそこに信心頂いていなかったら、今の秋山さんがたはどげん〔なっとるだろうかと〕それこそ支離滅裂と言うが、そういう事になっておったに違いないと思うです。せっかくでけた可愛らしい孫も、結局まま母さんにつけんならんというようなところまでいったんです。もうそういう、本当にもう危機一髪という時に宮崎の方へおかげを頂いて、もう本当にそりゃもう、あの喜び喜びいっぱいというか、とにかく信心のありがたさがしみじみわかると言うて来ますです。もちろん親の元には尚更のことですけれども、それがね年賀状の葉書いっぱいに書いてあるのです。
おかげ受けておること、年末からおかげ頂いておること。もうこんなありがたいお正月をしたことは初めてという、その感激いっぱいの葉書が来て、「あんた方にも来たの」と〔言うて〕秋山さんにも見せてから。しかし、まあよう本当に辛抱し抜かせて頂くというても、ただ辛抱するだけじゃない、それを御神意、御神慮として、こりゃもう曲がりなりではあるけれども、絶対それで頂いてこられたですね、秋山さんは。本当にもう、親の信心の本当、賜物と言わなければおれない様なおかげを頂いております。
いわゆる、それこそ不如意な時にいよいよに御神慮を深くわからして貰い、御神意が悟らして頂けてのおかげ。ね、本当に親の信心のありがたい。それを子供が本当に実感しておる。
お月例祭というのに、お魚一匹、御神酒、一合の御神酒すら買えなかった時代にです、それこそ感動、喜びいっぱいでおかげを頂いてはじめて神様が魚づくしにして下さる。そういう例えば不如意な時こそです、今は水づくしじゃろうけれどもその水づくしのところをありがたく頂かしてもろうて、神様が下さろうとする魚づくしのおかげを頂きとめた時に神様がお喜び下さるのです。私はその、井上さんのその事のお届けを聞かせて頂いてから、ほんにそう、ほんなごとね、神様が、魚づくしになるまでは離れられんのが、わしの心じゃと、こう仰るがそんならこの様な魚づくしにならせて頂いたから神様がもう離れなさるかというと、どっこい今度はこっちの方が離さん。(笑)神様が離れようと<なさったっちゃ>もうこっちの方が離さない。神様は結局ありがたい、勿体ないの中に住みなさるのです。
昨日の御理解の中にも申しましたようにね、皆さんが信行で大祓信行一生懸命なさっておられるのに、私もこりゃ、お取次者、教会長として信者にだけは、さあ十巻、大祓を上げよ、二十巻上げよと言うといてから自分ないっちょんそれこそ一巻も上げんといった様なことで、よかじゃろかと思いましたことをお届けさせて頂きよりましたら、御神酒のいうならば栓をゆるめたり開けっ放しで忘れる様なことすんな。御神酒の気が抜けんようにさえ心がけておけばよい、というお知らせを頂いたです。私の心の中にありがたい、勿体ないというものが抜けん様に、ただその精進だけを。だから、大祓信行というのはです、問題はお互いそのありがたい、勿体ないの例えばそういう心の状態を頂かせて下さるための一つの手がかりなんです、ね。ですから、だんだんおかげを頂く様にならせて頂いたら、十巻の大祓は五巻に、五巻の大祓は三巻に、二巻に一巻にという様にです。していく事が本当なんです。一生なら十巻を上げ続けたなんていう事が、あってよかろうはずはないです。
昨日、総代の高山さんのお届けを聞かせて頂いて、「本当に先生、大祓信行が始まってからこの方、私が一生懸命御祈念さして頂きよると、嫁がついてくる孫達までがついてくる。」この頃、孫達がね「また、お神様がパチッといいなさるの。」ちゅうてから、もうおいさみ頂かれるわけです。だから、そんパチッというのが楽しみのごたるふうです。そして子供達まで一緒に上げると、こう言うのです。
まあ、それこそ秋山さんとこじゃないけれども、ついこの頃まではもうそれこそ、わりわりという様な時代があったわけです。そんためにいうならば、長男である英樹さんが大阪あたりに行っても、まあ別れていったわけじゃないけれども、いっときばかりそういう時代があった。本当につい何年か前までは、そういう様な雰囲気であったのがです。この頃がおかげを頂いてね、子供孫達にいたるまで、おばあちゃんの信心についてくる。しかも楽しゅうなってくる。私はね、いうならば見事に荒れ屋敷から立派な屋敷が生まれた。荒れ地から立派な屋敷が出来る、あの時こそ荒れ地を耕し、肥料を施したという事がわかるです。
昨日、青年会の方達が御本部参拝から帰って参りました。光昭がお話をしておりましたが、奥城ではそう感動頂かなかったけれも、三代金光様の前に座らせて頂いて、合楽の大恩人、三代生神金光大神様と唱えた時に感動が沸いて来た、と言う。合楽の大恩人、三代金光大神様を唱えた途端に感動が止まらなかったと言うております。本当に大恩人と思うただけでも神様がお喜びを見せて下さるのです。
恵美子さんが言うておりましたが、夫婦で必ずやっとります、けども主人は御本部参拝ですから時間を【 】、光昭はいつもの時間に汽車の中で、もうとにかく汽車の中はガラ空きだからこちらの人のいない所で御祈念をさして頂いた。そりゃあもう本当に不思議な事ですが、二度、あの光昭の声で丁度光昭が呼ぶ時に、「おい、おい」と呼ぶ声を二度聞いたと言うのです。それでやっぱり同じ時間に大祓信行を上げよんなさるとじゃろうと思うてまあ、とにかくありがたい思いでおかげを頂いた。
それでもう、一人ですからね二階にもう二度目の時にはもう、余りもう怖かったと言うております。こういう事があるだろうかと、いう様に夫婦の心がいうならば交流する。
同じ時間に同じ時に、無心の大祓信行をさせて一生懸命させて頂く。片一方は汽車の中、片一方は自分の二階でそうさせて頂いておれば交流する。いやが上にも夫婦の心の上にです。いわば、豊かな心が育っていく事はもちろんであります。それを神様がまた、こよなく喜んで下さる。そのしるしが、そういう一つの不思議な働きになってくるわけです。 どうぞ皆さん、その荒れ地、荒れておる時ないちゅう事じゃありません。けど、そういう時にです、いよいよ大事にしなければいけません。
不如意な時ほど心を大事にして行かねばいけません。それこそ神様が魚づくしにして下さろうとする働きなのですから、前提ですから。そして魚づくしになった時にです、ここんところができずに魚づくしになったら必ずまたおかげをそれこそ、離れられぬがわしの心じゃといわれるのですから、もう神様が下さろうとするおかげを下さったのですから、もう神様が離れていきなさるのである。ところがどっこい、その時にはこちらの方が神様を離さんですむ信心がです。その不如意な時に出来とかなからなければいけんのです。
おかげを頂いてもまた元の木阿弥という様なね、それはあいすまんです。だから不如意な時に本当に良い信心というか、ありがたい信心を身に付けていかねばいかんということがわかります。
信心を頂いておりましても、やはり自分の心が助かっていない、いわゆる心が荒れておる時には必ず問題があります。いうなら人間関係でちょっと、こう家庭の雰囲気が悪い時にはあなたの心が今荒れている時だと思やよいです。
信心の薄い者やら、無い者やらは仕方がないのですから腹も立てよう、いらいらもしようけれども信心を頂いてありがたいという心の状態がです、ある時には全然問題が問題ではありません。そういう時を、なら、秋山さんやら高山さんやらは大事にされたわけです。
魚づくしにして下さるけれども、頂いた時に受け止めた時に、そしてそれで神様がね、離れられぬが神の心じゃと、魚づくしになるまではと。ですから、魚でづくしになったら神様が離れなさる。氏子が幸せになったら、ところが離れなさるからまた不幸になっていく。おかげ頂いたその事がかえっておかげ落としの元を作っていく。
ああ、お金があるというとすぐ贅沢をする。ああ、力が出たというから喧嘩する様になる。これでは離れなさることはもちろんです。だから、そういうおかげを頂いたら落とさんですむ神様を離さんですむ信心を頂いとかにゃならんという事です。
今日は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさるのですから、まあ反対の事ならば神様が好きなさる喜びなさる。今、合楽で信心の焦点というならばです。神を信ずるという事よりも、神様に信じられるという信心に今、焦点を置いておるわけです。ね、いうならば荒行の一つもさして貰う、水を被ったり断食やらする、不思議に心の中にもりもり力がわいてくるです。いうなら、神様を信ずる心がわいてくるといった様な神様を信ずる心がわいてくるです。だから、おかげを受けるです。けれどもおかげを受けたら、いわゆる神様を信ずるだけの表行というものが定められますと、もうそれこそ雲か霞の様に消えてなくなるです。不思議です。だから、表行が大変厳しくておかげを頂いた教会なんかはその表行がしまえたらす-っとするです。その教会の御比礼は。だから、もうとにかく私はむしろ弊害があると悟ったところから表行はいかんと、絶対表行はするなという事になったのです。心行いよいよ心行に取り組ませて頂く事こそ、神様に喜ばれる心、ありがたいという心、勿体ないという心をいよいよ育てていこうとする行が心行です。ですから、神様が信用なさらんはずがないです。
久留米の初代が言うとられる様に、御神徳とは神様の信用を言う言うとられるのです。御神徳が受けられるのです。
だから心が荒れる、それは心行をおろそかにしてる証拠である。荒れ屋敷、お金がある時だけはにこにこ、お金が段々少なくなって来るともう家の中に争いが絶えんといった様な家庭では住み付きなさる事がなく、反対にそれこそ福の神が逃げて、その反対の貧乏神が入って来ることになるのです。心を大事にしなければいけません。心を荒れちゃいけませんです。
今日はそういうふうに荒れ地荒れ屋敷という事を、私共の荒れた心、または荒れた家庭これは神様がお喜び下さらない。だから、心をいよいよ豊かに家庭をいよいよ家庭信心に家庭に不和のなきが元と、仰せられるその元を頂かなければいけない。
けど、やはり無い事はない、あります。波、風もありますけれども、そこを一人の信心者がおってです、なら心行に本気で取り組む人がおってです。それを詫び、それを願っていくです、いき方になると、そこからそれこそ春のようなおだやかな家庭にもどる事が出来るのです。そういう意味で、最近いわれる大祓信行といった様なです。
さぁ、おばあちゃんが御神前で一生懸命御祈念をしよる。嫁がついて来る、孫がついて来る。本当どういう、なら家庭が荒れておったごとしとりましてもです。御神前で大祓奏上しよるうちにです。それは穏やかなものになって、それこそお詫びの仕合いの出来る様な雰囲気が生まれて来ると思うです。
今日はそういう荒れ地荒れ屋敷という事を人間の心の荒れること、家庭の荒れる事というふうにいわば置き換えて、聞いて頂いた。そして不如意の時ほど私共はいよいよ、その心を水ももらさん有り難いものにしていけれる、一番のチャンスを頂いていると思うて大事にして行かなきゃならんという事を聞いて頂いたですね。どうぞ。